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Lockdown

 日々の忙しさによりしばらくの間、創作活動から離れてしまいました。そうしているうちに、生活世界を一変させるこれまでなかったウイルスという変わった「やから」が現れてきたのです。そのやからは普段、目に見えないという意味で放射能に近い存在ですが、厄介なことにヒトを介して伝染してしまうのです。絡まれ方は人それぞれで、多くはやからに目をつけられるだけで攻撃されないのですが、弱ったヒトや気にさわるヒトにはただひたすらに絡み続けるということで、なかなかそのやからの行動自体を変えることが難しいのです。その状況をコントロールするため、中央政府によりLockdownやSocial Distanceといった人と人との物理的な距離を保つ政策がとられていきました。さらに、そうした中で離れた物理的な距離を電子的なインターネットで精神的に近づける新しい生活様式、New Normalが提唱されたのでした。しかし、このAbnormalな状況はある意味、自由を奪われ、自分の思いの矢印を向かわせる方向がないので、それはとても窮屈に思えてしまうのです。そんな中、生活世界に「ここではないどこか」を求めていた私は、映像でも写真でも音楽でもない、文章という表現方法で脱出方法を試みたのでした。それはある意味、チャレンジングな試みで自分自身もその冒険に参加しているような夢を追った経験でした。New Normalの前提にはこれまでの社会経済の維持があります。一方、生活世界においてはそれとは異なる次元でギアチェンジが必要で、外なる世界を動き回るより、内なる世界を探求するWork on Oneselfな時期なのかもしれません。

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 日本には四季があり、それぞれの季節では気温は勿論のこと、日々移り変わる天候と私たちを取り巻く環境によって生み出される独特の空気感が存在している。さらに私たちの普段の生活や社会生活を送る上でのライフイベントがその空気感に加わり、その時だけのある種、特別な気分に私たちはひたされているのである。今や情報技術の発達に伴い音楽はいつでもどこでもどんな曲でも私たちの指一つの選択によって選べる存在になった。しかし、たとえ同じ曲であろうと曲を聴くタイミングが異なるだけで、その時の気分がその音楽の存在を大きく変えてしまう。そして一度過去に聴いた曲を再び聴くと、その曲には既に過去の記憶や匂い、感情までもが染みついていて、こればっかりは消そうと思ってもなかなか消せないのである。そうあの若き青春時代に聴いたヒット曲も、いま聴くとその時代にすぐさまタイムスリップしてしまい、新しい体験をその曲に上書きする事は困難である。つまり新しい曲を聴くという行為は不可逆的であり、ほんの軽い気持ちで再生ボタンを押せるが、実は自身の人生の一つの決断となりうるという事を覚えておかなければならない。

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 バリ、バリバリ。トオルはポテトチップの袋を開け、真新しい匂いにまだ慣れない部屋にただ一人、少し大きめの額に飾られたお気に入りの雲が描かれた絵をぼんやりと眺めていた。四月も終わり、ゴールデンウィークだというのに外に出るのも少し気が引ける状況で、出来ることといえば、普段全く手を出さないスナック菓子と瓶入りサイダーを何かの記念日かのような思いで購入し、晴れた土曜日のお昼さがりにバリバリとほうばるのが唯一の楽しみになっていた。四月から仕事が始まったばかりだが、新しく配属となった部署の歓迎会も社会的距離を保つため中止にしますという奇妙なお知らせ。まだ知り合って間もない同僚とぎこちないオンラインでの仕事のやり取りが続いていた。当然、仕事はスムーズに進む訳もなく、同じ場所にいないにもかかわらず苛立つ上司の目線を感じざる終えない状況で、この少し長めの連休を迎えてしまったのである。そんな気分を少しでもはらそうと試したポテトチップスは、悪あがきにしてはかわいらしくバリバリという音の響きだけで何故か少しだけ気分が楽になる。換気を良くするため開けていたベランダの窓からこの季節にしては少し暑目の日差しにさらされた風が気まぐれに入ってくる。手にしてるスマホのTwitter からは、毎日の様に繰り返される刻一刻と悪化していく社会情勢と気まぐれな政治ニュースのリツイートたち。この制限された社会環境とインターネット空間において出来る事といえば、支持を表明するいいね!の♡マークをぽちぽちと押すこと。この地域はもう二週間以上ゼロを刻み続けているが、国という身体の一部からはずれることはまだ許されていない。
 ポテトチップの袋の奥底までもう一欠片も無いことを確認したら、ため息ひとつ。このまま人生終わってしまうのだろうかと、そんな途方もない思いに無意識にかりたたてられ、つきたくもない自分のため息に気を落としてしまうのだった。ふと視線を下に向けるといつだったか駅から持ち帰ったバスの路線図が目に入った。ここではないどこか。そうか、この状況で胸を張って旅行は出来ないが市バスという域内での移動は制限されてないはずと勝手に思い込み、気がついたらなるべく人との接触を少なくするため最も人が乗らない山に向かう路線について調べていた。始発まであと十四時間三十六分。路線図の終点近くには寂れたもう誰も行かないような公園があることをグーグルマップで確認し、路線図に始発と終バスの時間を書きこむと、なぜかさっきのため息も実は、窓から入ってくる気まぐれの風と同じようにあっという間に過ぎ去っていった。雨のち晴れ。ウォークマンにまだ聴いていなかったDylan Hennerの新作を忍び込ませ、枕元に置いてそのまま朝を迎えた。

 早朝の冷たい風をさえぎるため真冬同様の黒い厚手のジャンパーに身を包み、フードに帽子と口にはマスク。何かを盗みに行くかのような気分でバス停まで徒歩十分の道のり。雨は思ったより降っていないし、人にも車にも全くすれ違わない。まるでこの世は冬眠という新たな社会的選択肢を選び、家の扉は心の鍵との二重ロックで閉ざされていて人が住んでいるとは思えない世界。そんな中でも以前と変わらず時刻通りに市バスは到着し、銀河鉄道999のようなドアの開き方。シューーッという音の後に一歩を踏み出す緊張感。顔の見えない車掌以外人はいない。「ドアが閉まりますご注意ください。」入って右側奥、バスのタイヤのせいで少し狭くなっている席をあえて選び持ってきたショルダーバックを席の右側に置く。一連の動作と同じタイミングで999はドアを閉め前にゆっくりと進みはじめた。しばらくするとさっき以上に雨足が強まってきた。街が濡れていくのをただぼんやりと眺めている。目の前に並んだ何枚もの車窓という画面に写される普段見慣れた街の姿は美しい。街はずれにさしかかり、これまで建物たちで見えなかった山並みが見えはじめたとき再生。カシャッという音が世界が切り替わる瞬間。バスの走るスピードが速くなり、窓から映し出される映像が次々に変わっていく。タイムマシーンに乗り時間を遡っているかのように過去に作られた景色に戻っていく。山の向こうは明るく雨が止むことを光りの強さで教えてくれている。藪を横切るカーブ。田んぼのスライドショー。小さな川にかかった石橋と遅咲きの桜。人のいない停留所を次々と通過し終点まであと二つ。ピーンポーン。次止まります。あえて終点までは行かず一つ前の駅から歩く事にした。

 もうどれくらい前のことだろう。最後に田舎道を歩いたのは。いつもはデジタル画面でしか見ることのなかった自然がオーケストラのように鳴り響く。草木と風の共演。ところどころにある水たまりのどこに次の一歩を踏み出すかによってリズムとメロディが選択可能だ。ウォークマンはもう聴いていないが、さっきまで聴いていた曲のリズムを無意識のうちに踏んでいた。基本的には同じリズムの繰り返しだが、若干のズレがあり、それが自然を歩くには合っている。タンタタタン。タンタタタン。気がつくと目的としていた誰もいない寂れた公園についた。公園といってもただの広場でベンチしかない。持ってきたレジャーシートをベンチの上に敷き、風を遮ぎるため傘を広げてその中に身を寄せる。遠くの山々と明るくなっている雲の切れ目を眺めながら、水筒に入った熱いお茶一服。まだ頭の中でリズムが刻まれている。

Caman humming bird 
2020/5/5 (noteにて投稿)

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