top of page

90s-00s

 90年代が終わり、00年代がはじまる頃、ある友人の紹介でFESNの43-26という伝説的なスケボービデオに出会いました。このビデオの冒頭でDJ BakuはスクラッチをRockビートにかぶせ、それとともにはじまるオーリーの数々の映像は今でも鮮明に思い出せるほど強烈なものでした。calmato.のイメージから意外に思われるかもしれませんが、こうした人の記憶に鮮明に残るような音作りをしたいという思いから私の作曲活動がはじまったのです。そしてその頃、お金もなかった私はバンドをしている友人からあまり使っていないというドラムマシンのZoom RT-234 RhythmTrackを借りて思いのままに音を打ち込み、はじめての曲、kong を作ったのです。幸いにしてこの曲は今でも聴けて、calmato.の1曲目に置いています。冒頭の叩きつけるようなドラム音は43-26の衝撃を意図したもので、この曲を作っていた時の記憶は今でも覚えています。この初期の頃に作った曲はいくつかあったのですが、今、残っているのはone daylark, lark, larkonda beatといった曲ではなかったかと記憶しています。

 その後、生まれ育った大分を離れてから数年たった頃、たまたま立ち寄ったリサイクルショップでZoom RT-234 RhythmTrackを偶然見つけて購入し、calmato.にあげている曲たちの続きをつくりはじめたのでした。この頃になると、myspaceで自分の作った曲を公開出来るようになり、作るたびにほぼリアルタイムでアップしていきました。なかでも、James Cameronの映画、Avatarの中の音楽に影響を受けたlangit terang, burung terbangやベットで眠りながらZoom RT-234 RhythmTrackを抱えてまどろみの中で作ったa part of flat といった曲など、青春を駆け巡った中で生まれたもので一曲一曲がとても懐かしいものです。

​ 

calmato.

「記憶の中の街」

見るものすべてが新しかった。そんな時代があった。90年代後半。大分。街にはヒップホップが鳴り響き、エビスジーンズの白いペイントが輝いて見えた。大分駅から薄暗い地下道を通り抜け地上に出ると、そこに歩く人々の中には黒人も混じっている。新しい香水の香り。Boon、street jack、cool transといった雑誌メディアの力を借り、ストリートという名の舞台では、歩く人すべてがファッションモデルになり得た。そして、その目線の先には、パルコというファッションの巨塔がそびえ立つ。Mens bigi、Katharine Hamnett London、PPFM、最上階にはビレッジバンガードが控える。刻一刻と変わるトレンドに惹かれ、新しい何かを見つけに人々はビルの中に吸い込まれていく。外の特設会場では、アメリカからの大量の古着が売られ、髪の色を金髪にした店員が歩いている。バンドブーム。パンク、ビジュアル系、ヒップホップといったファッションと音楽、思想の境界線のない文化的複合体は、二十歳前後の若者の新鮮な好奇心と社会的ステータスを形作るのに十分すぎるほどのものを与えてくれた。
街に出ると、いつもそこには新しい文化があった。その新しい文化の欠片に、若者たちの話はもちきり。自分が、友達が、好きなあの子が、どの店のジャンルに興味を持っているのか。どんなかわいいかっこいい服や音楽がどこのお店で売っているのか。ファッション文化についてこれだけオープンに、日常的に語った時間がかつてあったのだろうか。ファッション、音楽とそれらを含む文化の集合体が街という空間構造の中でそれぞれの居場所を見つけ、根ざし、人々と関係を持っていた。
かつては、ドラえもんの映画に子ども達が長蛇の列で並んでいて、立ち見もあった映画館のある府内五番街は、United arrows、Takeo kikuchi、COMME des GARCONS、Number (n)ineと言ったセレクト、モードファッションの中心地となり、一つ通りを変えれば、Colombia、Karrimor、Patagonia、Mammutといったアウトドア系のショップ、そして、APC 、555 soulといった新しいブランドショップが次々に立ち並んでいった。こうした文化的商業空間は、その存在形態を季節毎にその姿を変えた。
トキワという大分の歴史あるシンボル的商業ビルを横目に街で最も大きな横断歩道を抜けると、第3の文化ビル、フォーラス。地下空間には、タワーレコードと島村楽器という最新のグローバル化した商業音楽施設を完備し、Spinnsをはじめとした古着ファッションの宝庫と雑貨、雑貨、雑貨。昼間にビルに入り込めば、そこから出る頃には日が暮れていた。アーケードを抜け、ぽっかりと空いた公園の空気は、どこか澄んでいた。そして、公園の片隅にある駐車場ビルの一階部分にこれまで述べたどのカテゴリにも属さない場所が存在した。Salon。CUT UP。近づくと、お香の香りが立ち上り、これまでに聴いたことのない音が響き、五感を通じて新世界に入り込む。CUT UPは、スケートショップとレコードショップを兼ね備え、Salonは、古着屋で、hiphopのミックステープもアメリカの雑貨も取り扱っていた。店先にあるソファと自動販売機、灰皿。この空間でたたずむひと時は、これまでの人生で訪れたどこよりも新鮮さを感じることができた。日が暮れて間もない時にこの空間で聴くNobukazu Takemura “Anemometer”。
このような時代を人々はどのように感じていたのだろうか。この偉大なる文化的空間群が数年後に大きな変化をしていくことになったにもかかわらず、不思議な事に、それは語る間もなくあっという間に過去の出来事になってしまった。二十歳前後という年齢はこの文化大革命の中で心の準備も出来ぬまま、これまで田んぼ畑だったところにモールという新しい商業空間を完成させられ、これまで親しんできた街への愛着からくる少しの違和感を感じながら、PHSで友達と約束をして、そこにある新しい映画館で観るハリウッド映画。
効率や経済性、利便性を追求したモールやインターネット空間は、完全で完成していた文化空間であった街を細分化し隔離してしまった。異なる異種の環境下の中でこそ意味を持った文化集合体が多数存在した街からモールやインターネットといった閉ざされた空間へと引き込まれたその存在価値は、まるで博物館に入った展示品と化したかのようだ。街からモールに、インターネットにと離れたときにいとおしく感じた過去の愛着こそが、探し求めているものだとは気づかずに。

Caman humming bird
2018/10/26

noteに投稿)

bottom of page